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末代無智の御文
まつだいむちのおふみ(→赤本P.60)
※ここに記すのは、独自の解釈を多く含みます。
ぜひ、他の方の考え方も調べてみてください。
概説
「御文」そのものに関しては、「御文について」の項を参照してください。五帖第一通の「末代無智の」から始まる御文を、「末代無智の御文」と呼びならわしています。
淨國寺では月参り(それぞれのお家の命日のお参り)の時、お内仏の前で正信偈をお勤めした後に、この「末代無智の御文」を拝読します。
本文
(註:分かりやすいように、文字を色分けしたり太字にしたりしています。また、漢字や仮名遣いは現代のものに改めています。)末代無智の 在家止住の 男女たらん ともがらは
こころをひとつにして 阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて
さらに余のかたへこころをふらず
一心一向に 仏たすけたまえともうさん衆生をば
たとい罪業は深重なりとも
かならず弥陀如来はすくいましますべし
これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり
かくのごとく決定してのうえには
ねても、さめても、いのちのあらんかぎりは
称名念仏すべきものなり
あなかしこ あなかしこ
用語
末代・・・末法の時代。釈尊入滅後千五百年経過後(異説あり)、正しく覚る者も正しい行も失われた、末法の時代になる。遠い子孫を表す「末代までの恥」とか「末代まで祟る」の意味ではありません。
親鸞聖人は、ご自分の生きておられた時代を、末法の時代と考えておられました。
また云わく、経の住滅を弁ぜば、いわく釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。(→聖 P.359『教行信証』化身土・本巻、『大集月蔵経』からの引用部分)
三時経を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説に依るに、已にもって末法に入りて六百八十三歳なり。(→聖P.360『教行信証』化身土・本巻)
釈迦の教法ましませど 修すべき有情のなきゆへに
さとりうるもの末法に 一人もあらじとときたまふ (→赤本P.118『正像末和讃』55)
無智・・・智慧が無い、覚る(さとる)ことができない、救われない。無明(むみょう)。
無知、もの知らずではありません。智慧と知恵とは異なるものです。
智慧は、仏教では光に例えられる、人々を苦悩から救う力です。
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり (→赤本P.112『高僧和讃』源信 8)
在家止住・・・煩悩まみれの俗世間の中で生活していること。←→出家流行(るぎょう)
ともがら・・・我々、浄土真宗の門徒の事。
蓮如上人は、門徒の事を、ともがらとか御同朋(おんどうぼう)と呼びました。
第十八の念仏往生の誓願・・・大経(浄土三部経の一、仏説無量寿経)にある、四十八願の内、第十八願。
設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念。若不生者、不取正覚。唯除五逆、誹謗正法。
たとひわれ仏を得たらんに、十方衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずんば、正覚をとらじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く
(→聖P.18『大経』第十八願文)
決定・・・信心決定。
信心すべしと心を定める事だと思います。
称名念仏・・・阿弥陀仏の御名を称えること、念仏すること。南無阿弥陀仏と称えること。
あなかしこ・・・手紙の末尾に付ける定型句。現在の「拝啓~敬具」「前略~草々」などと同じ。
御文はもともと手紙として送られたものなので、「あなかしこ あなかしこ」で結ばれます。
解説
入り組んだ文章ですが、最も核となるのは、太字で示した「ともがらは」「称名念仏すべき」です。「ともがら」がどのような存在なのか、何故「称名念仏すべき」なのかどのように「称名念仏すべき」なのか、そういった事が周辺に書かれています。
本文の内、一字下げてある部分(「一心一向に」~「誓願のこころなり」)は、第十八願の意(こころ)を説いた部分です。
『安心決定抄』に云わく、「浄土の法門は、第十八の願を能く能くこころうるのほかにはなきなり」と、いえり。しかれば、『御文』(五帖一)には、「一心一向に、仏、たすけたまえと申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず、弥陀如来はすくいましますべし。これ、すなわち、第十八の念仏往生の誓願の意なり。」と云えり。(→聖P.888『蓮如上人御一代記聞書』より抜粋)
すなわち、
「衆生」が「一心」「一向」に「仏たすけたまえともう」すならば、
たとえ衆生の「罪業が深重」であっても、
阿弥陀如来は「衆生」を救いまします
というのが、第十八願の意味するところである、という事です。
「ともがら」というのは、私たち門徒の事です。
私たちは、「末代」「無智」の「在家止住」の者です。末法の時代、煩悩まみれの俗世間の中で生きる、覚れない存在です。
もしかしたら「罪業深重」であるかも知れません。
しかし第十八願によれば、そのような私たちでも「一心」「一向」に「仏たすけたまえともう」せば、阿弥陀仏が救ってくださるというのです。
そうであるならば私たちは、「こころをひとつにして」「余のかたへこころをふらず」「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせ」るべきなのです。
(※「こころをひとつにして」は、「皆の心を同じくする」ではなく「ふたごごろなく」「疑いなく」という意味だと思われます)
「一心」「一向」に「仏たすけたまえともうさん」衆生を、阿弥陀如来が救いまします、
という第十八願の意を知って
「こころをひとつにして」「余のかたへこころをふらず」「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせ」ると思い定める、
これを信心決定するというのでしょう。
そして、
「一心」「一向」に「仏たすけたまえともう」す、
「こころをひとつにして」「余のかたへこころをふらず」「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせ」る、
という事の具体的な表し方が、「寝てもさめても命ある限り称名念仏する」、なのです。
補足:御正忌の御文(→赤本P.62)との比較
五帖第十一通の『御正忌の御文』は、御正忌、すなわち親鸞聖人のご命日の法要である報恩講の時に拝読される御文です。この一部が『末代無智の御文』と対応しており、理解を深める助けになるので、見ていきます。
御正忌の御文の中で、「信心決定」について
南無阿弥陀仏の六の字のこころを よくしりたるをもて 信心決定すとはいうなり
と述べられています。
更に、「南無阿弥陀仏」の六字について、
南無という二字のこころは もろもろの雑行をすてて うたがいなく一心一向に 阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり
さて阿弥陀仏という四の字のこころは 一心に弥陀を帰命する衆生を ようもなくたすけたまえるいわれが すなわち阿弥陀仏の四つの字のこころなり
されば南無阿弥陀仏の体を かくのごとくこころえわけたるを 信心をとるとはいうなり
とあります。
「阿弥陀仏」の四字のこころは、第十八願を受けていると思われます。
「ようもなく」は「たとい罪業は深重なりとも」に対応します。
第十八願では、浄土に往生する条件には「十方衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん」とだけ示されます。
小経(仏説阿弥陀経)に「不可以少善根 福徳因縁 得生彼国(少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず)」(→聖P.129)とあるように、苦しい修行をしたり、仏塔を建立したりという「善行」を積む事によって往生できるわけではないのです。
一心一向に 仏たすけたまえともうさん衆生をば たとい罪業は深重なりとも かならず弥陀如来はすくいましますべし
と
一心に弥陀を帰命する衆生を ようもなくたすけたまえる
とが対応します。
(「至心」「信楽」「欲生」が、それぞれ「一向」「一心」「仏たすけたまえともうす」に対応している、とまで考えるのは先走り過ぎでしょうか)
「南無」の二字は、弥陀を帰命する心を示します。
御正忌の和讃の中でも、善導の六字釈を引いて
南無というは帰命 またこれ発願回向の義なり
とあります。
省略されている主語、弥陀を帰命する主体は「衆生」です。
こころをひとつにして 阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて さらに余のかたへこころをふらず
と
もろもろの雑行をすてて 疑なく一心一向に 阿弥陀仏をたのみたてまつる
とは同じことを言っているのだと思います。
つまり、『御正忌の御文』における「南無阿弥陀仏の六字のこころ」と、『末代無智の御文』における「かくのごとく決定」より前の部分とは、ほぼ同じ内容を示していると考えられます。
『御正忌の御文』では
南無阿弥陀仏の六の字のこころを よくしりたるをもて 信心決定すとはいうなり
ともあるので、「かくのごとく決定」は「信心決定」と考えて良いでしょう。
阿弥陀仏の願を信じ、阿弥陀仏に帰命する(=南無)という事が、信心決定するという事であり、これはすなわち「南無阿弥陀仏」の名号そのものであるので、称名念仏という形で表されるのです。
弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし (→赤本P.117『正像末和讃』53)