(2019.09.15作成)
(2019.09.21修正)
(2019.12.08修正)
(2020.04.25修正)
(2020.10.11修正)
(2023.12.21誤字訂正)

白骨の御文

はっこつのおふみ
(→赤本P.67)

概説

「御文」そのものに関しては、「御文について」の項を参照してください。

五帖第十六通の御文を「白骨の御文」と呼びならわしています。
多くの場合、お葬式の後、ご遺体を火葬してお骨が還って来てから行う「還骨勤行(かんこつごんぎょう)」で「白骨の御文」を拝読します。


明治以前の文章家のなかで、平易達意の名文家は、筆者不明の『歎異鈔』と室町末期に本願寺を中興した蓮如上人(白骨の御文章)と宮本武蔵(五輪之書)のほかにはみられない
司馬遼太郎『真説宮本武蔵』より


本文

(註:引用元ごとに色を変えています。また、漢字や仮名遣いは現代のものに改めています。)

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観(かん)ずるに、
おおよそはかなきものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。
さればいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりといふ事をきかず、一生過ぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、

おくれさきだつ人 は、もとのしづくすえの露よりもしげしといえり
されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。
すでに無常(むじょう)の風きたりぬれば、
すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、
紅顔(こうがん)むなしく変じて、桃李(とうり)のよそおいをうしないぬるときは、
六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐(かい)あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、
ただ白骨(はっこつ)
のみぞのこれり。
あはれといふも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、
たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。



淨國寺第十五代釈隆昌による現代語訳

そもそも、人間の浮草のような有り様をつくづく観ていますと、本当にはかないことは、人が生まれ、生き、死ぬという、始め、中、終わりの一生であり、それは夢、まぼろしを見ているような時間の移ろいであります。
それでありますから、今だかって万年を生き抜く身体を受けた人など聞いた事がありません。一生はすぐに過ぎてしまいます。今日においても、百年の間を身も心も変わらぬままに生きることなど、誰ができましょうか。
わたしが先か、他人が先なのか、今日死ぬのか、明日死ぬのか、誰も分からないことです。遅れて死ぬも、先立って死ぬも、そのはかないことは、木の根元についた雫や、葉の末にある露のはかなさよりも、はるかにはかないものが、人の生まれて死ぬ姿と言えましょう。そのように、誰もが、朝には元気で血色のよい顔であるのに、夕べには命が終わり白骨に変わる身です。だから無常にも、事故や病というような死の縁の風を受けると、二つの眼はたちまちに閉じ再び開くことはありません。一つの呼吸は永遠に途絶え、生き生きとした顔色は白い死顔に変わり、美しく溌剌とした姿も失われて屍(しかばね)に変わるのです。
父母、兄弟、妻子、親族、姻戚など縁ある人々が集まり、嘆き悲しむのですが、もはやどうしようもありません。そこで、悲しみのうちに野辺に送り、夜半まで、立ちのぼる煙りとともに火葬にふした後には、白い骨が残るのみです。
そのはかなさは、あわれという言葉などではとても言い表せないものであります。
このように、人間の生死のはかないことは、若さや老いの年の定めに関係なく、誰にも必ず訪れるものであります。
今こそ、どの人も自ら真実の浄土に往生するという人生の一大事を心にかけて、阿弥陀の本願を我が身に深く受けとめて、南無阿弥陀仏の念佛を心に深く称 えるべきものであります。



用語

浮生なる相・・・浮草のような、周りに容易に流されて生きる姿

つらつら観ずる・・・よくよく観察する

おくれさきだつ人は、もとのしづくすえの露よりもしげし・・・後述の遍照の歌を踏まえていると思われます。「おくれさきだつ人」が「しげし」というのは、後に死ぬ人や先に死ぬ人がとても多い、という意味です。比較対象の「もとのしづくすえの露」は、植物の根元(あるいは葉の元の方?)にある滴と葉先にある露、いずれもやがて消えてしまう、はかない物の例えです。また、「もとのしづく」は若者、「すえの露」は老人を表してい て、葉先にある露の方が先に落ちて消えそうだけれども、元にある滴(しずくというからには動いているのだと思われます)が先に消えてもおかしくない、老人より若者が先に死んでしまう事も有り得る現実を示唆している、という風に深読みもできます。

紅顔・・・血色の良い顔。「紅顔の美少年」という表現は死語でしょうか。

桃李(とうり)のよそおい・・・桃(モモ)や李(スモモ)の色のような、血色の良い、みずみずしい姿。

六親眷属(ろくしんけんぞく)・・・親類縁者。一族、身内、仲間。

野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば・・・昔は今と違い、屋外の何もないところで火葬を行いました。「けぶりとなしはてぬれば」は遺体が火葬されて煙が立ち上る様子を表したもの。

おろか・・・足りない、十分ではない。「疎か」と書きます(「愚か」ではなく)。

老少不定(ろうしょうふじょう)のさかい・・・年齢によって境界が定まってはいない。老人よりも先に若者が亡くなる事もある現実を表した言葉。
(「さかい」は境界ではなく境遇、境地の意がより正しいと思われるので修正します)
「不定のさかい」は、境遇が定まらない、いつ死ぬか分からない人間の現実を表す言葉。
『御正忌の御文』(→赤本P.62)より抜粋
人間は不定のさかいなり、極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも常住の極楽をねがうべきものなり。


本歌

日本には「本歌取り」という慣習があります(ありました)。
先人の作った和歌の語句を流用する事で、新しい和歌に別の(流用元の)和歌の印象を重ねる技法のようです。
この元にした和歌を「本歌」と言います。
また後に絵画や陶磁器でも、同様の事が行われ、同じく「本歌取り」というようになりました。
(例:桃山時代の織部の丸鉢を本歌として、角鉢を作陶した)

白骨の御文にも「本歌」がありますので、以下に示します。
(なお表記は、旧仮名遣い、旧漢字を含みます)


存覚上人『存覚法語』より抜粋
老少不定(ろうしょうふじょう)のさかひなれば、さかりなる人もおほくゆく。生者必滅(しょうじゃひつめつ)のことはりなれば、おひぬるひとはましてとどまらず。

後鳥羽(ごとば)の禅定(ぜんじょう)上皇の遠島の行宮(あんぐう)にして宸襟(しんきん)をいたましめ、浮生(ふしょう)を観(かん)じましましける御(おん)くちずさみにつくらせたまひける無上講(むじょうこう)の式(しき)こそさしあたりたることはり耳ちかにてよにあはれにきこえ侍(はんべ)るめれ。その勅藻(ちょくそう)をみれば、
あるひはきのふすでにうづんで、なみだをつかのもとにのごふもの、あるひはこよひをくらんとして、わかれを棺(かん)のまへになく人あり。おほよそはかなきものはひとの始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなるは一期(いちご)のすぐるほどなり。三界(さんがい)無常なり、いにしへよりいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)あることをきかず、一生すぎやすし。いまにありてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。われやさき人やさき、けふともしらずあすともしらず、をくれさきだつひとは、もとのしづくすゑのつゆよりもしげし
といへり。

究竟不浄(くきょうふじょう)といふは、ふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、日かずをふるままにそのいろを変じ、次第にあひかわるに九相(くそう)あり。しかれども、すなはち野外にくりてよはのけぶりとなしはてぬるには、九相(くそう)の転移をみず、ただ白骨の相をのみみれば、たしかにそのありさまをみぬによりて、をろかなるこころにおどろかぬなるべし。
たまたま郊原塚間(こうげんちょけん)をすぐるに、おのづからその相をみるときは、一念なれどもしのびがたきものなり。紅顔そらに変じて桃李のよそほひをうしなひぬれば、たちまちにホウ脹爛壊(ほうちょうらんえ)のすがたとなり玄鬢(げんびん)身をはなれて荊棘(きょうこく)のなかにまつはれぬれば、烏犬タン食(うけんたんじき)のこゑのみあり。

※ ホウ脹爛壊・・・にくづきに「降」のつくり/烏犬タン食・・・口へんに「敢」

後鳥羽上皇の『無上講式』は漢文ですが、『白骨の御文』に引用した部分が『存覚法語』と同じ読み下し方をしていること、
『無上講式』に無い表現も『白骨の御文』に使われていることから、『無上講式』から直接引用したのではなく、
あくまでも『存覚法語』を踏まえていることが分かります。
後半に挙げた部分は「九相」を踏まえています。「九相」とは、屋外にうち捨てられた死体が次第に朽ちていく様を九段階に分けたものです。最後の相は「白骨」になるようです。
『存覚法語』に直接引用されてはいませんが、後鳥羽上皇の『無上講式』でも「九相」に基づいて書かれています。

存覺(ぞんかく、正応3(1290)~応安6(1373))、本願寺第三代覚如上人の長子。『浄土真要鈔』、『六要鈔』(最初の『教行信証』註釈書)を著す。


後鳥羽上皇『無常講式』より抜粋(原文は漢文であるのを読み下した)
世こぞって蜉蝣(かげろう)の如し。朝(あした)に死し、夕べに死して別れるものの幾許(いくばく)ぞや。或いは、昨日已に埋みて、墓の下の者に槽涙す。或いは今夜に送らんと欲して、棺の前に別れを泣く人もあり。およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一朝の過ぐる程なり。三界無常なり。古(いにしえ)よりいまだ萬歳の人身あることいふことを聞かず、一生過ぎやすし。今に在(あ)りて誰か百年の形體を保たん。實(まこと)に、我はさき人やさき、今日も知らず明日とも知らず。おくれ先だつ人、本の滴(しずく)、末の露(つゆ)よりも繁し。

後鳥羽上皇が、隠岐に配流になって無常観にとらわれて書いた、といわれる文章です。
「承元の法難」では法然上人や親鸞聖人を配流にする側であった後鳥羽上皇が、後に自らが配流されてこれを記し、
我々が大切にしている「白骨の御文」に引用されている、というのが不思議さを感じさせます。

後鳥羽天皇(ごとばてんのう、治承4(1180)~延応元(1239))、第82代天皇。諱は尊成(たかひら・たかなり)。文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。「承元の法難」を主導。承久3(1221)年、承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、延応元(1239)年に同地で崩御した。
「人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」


『和漢朗詠集』より 義孝少将の漢詩
朝有紅顔誇世路 (朝(あした)に紅顔あって世路に誇れども)
暮為白骨朽郊原 (暮(ゆふべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ)


藤原義孝(ふじわらのよしたか、天暦8(954)~天延2(974))
「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな」


『新古今和歌集』より 僧正遍照の歌
末の露本のしづくや世の中の おくれさきだつためしなるらむ

遍照(へんじょう、弘仁7(816)~寛平2(890))、六歌仙・三十六歌仙。
「あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ」