(2021.02.14作成)

疫癘の御文

えきれいのおふみ
(→聖P.827)

概説

「御文」そのものに関しては、「御文について」の項を参照してください。

四帖第九通の御文を「疫癘の御文」と呼びならわしています。
お通夜のお勤めで拝読される事があります。


本文

(註:漢字や仮名遣いは現代のものに改めています。また、分かりやすいように一部漢字に変換しています。)

当時このごろ、ことのほかに、疫癘とてひと死去す。
これさらに疫癘によりて、はじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして、さだまれる定業なり。
さのみ深く驚くまじきことなり。
しかれどもいまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみな人おもえり。
これまことに道理ぞかし。
このゆえに、阿弥陀如来のおおせられけるようは、「末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほど深くとも、われを一心にたのまん衆生をば、必ずすくうべし」とおおせられたり。
かかる時は、いよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、極楽に往生すべしとおもいとりて、一向一心に弥陀を尊きことと、疑う心つゆちりほども持つまじきことなり。
かくのごとく心得の上には、ねてもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうすは、
かように易くたすけまします、御ありがたさ、御うれしさをもうす、御礼のこころなり。
これをすなわち、仏恩報謝の念仏とはもうすなり。
あなかしこ、あなかしこ。

延徳四年六月 日



用語

疫癘・・・疫病、伝染病

定業・・・じょうごう。業とは、行い、または行いに対する報い。
この場合は、「生まれた時から、いずれ死ぬという事が」定まっている、逃れられない、ということ。
南無阿弥陀仏をとなうれば/この世の利益きわもなし/流転輪回のつみきえて/定業中夭のぞこりぬ(→聖P.487『現世利益和讃』)の場合は、「定まった寿命」くらいの意か。
正信偈「本願名号正定業」(→赤本P.7)の「正定業」は正定+業「正しい行い」の意で、この御文とは別の言葉。

さのみ・・・それほど。そんなに。そう一概に。

さもありぬべきやうに・・・そうであるかのように。この場合「疫癘によりて、はじめて死する」かのように。


解説

2020年4月頃、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)が拡大している中、一部でこの御文が話題になったので便乗して作成した項目です。
掲載はずいぶん遅くなりました。(2021年2月)

この御文の書かれた延徳四年(西暦1492年)には、疫病がとても流行っていました。
七年前の文明十八年(西暦1486年)から、疫病で多くの人が亡くなっている記録が続いています。
延徳二年には大飢饉となり、被害が一層拡大したようです。
各地の寺社で、疫病を鎮めるための法要等が執り行われました。
御文の書かれた翌月の延徳四年七月に、明応へと改元されることになります。

人は死すべき定めを持っています。病にかからなくても死ぬのです。
お釈迦様は四苦四諦という事を仰いました。「生老病死(しょうろうびょうし)」の四つです。
人は生れ、老い、病にかかり、死ぬ事があきらかで避けられないのです。
しかし我々はそのように割り切れるものではなく、疫病が流行っている時にその病にかかって亡くなると、それによって死ぬことになったのだ、病気にならなければもっと長生きできたはずだ、と思ってしまうものです。
「これまことに道理ぞかし」と蓮如上人はおっしゃいます。凡夫である我々にとっては、それが当たり前の感覚なのです。
「このゆえに」阿弥陀仏は、末代の凡夫たる我々をお救いくださるのでしょう。