「宗祖を憶ふ」

しゅうそをおもう

金子大榮(かねこだいえい・1881年(明治14年)~1976年(昭和51年))先生は、地元新潟県上越市出身の高名な仏教思想家です。

この詩は、金子大榮先生が1961年(昭和36年)、東本願寺の宗祖親鸞聖人七百回御遠忌の際に作られたものだそうです。
大地5号に記載があります。

本文

宗祖を憶ふ
        釈木然

昔、法師あり
親鸞と名づく
殿上に生れて庶民の心あり
貧道となりて高貴の性を失はず

已にして愛欲の断ち難きを知り
俗に帰れども道心を捨てず
一生凡夫にして
大涅槃の終りを期す

人間を懐かしみつゝ
人に昵む能はず
名利の空なるを知りて
離れ得ざるを悲しむ

流浪の生涯に
常楽の郷里を慕ひ
孤独の淋しさに
萬人の悩みを思ふ

聖教を披くも、文字を見ず
ただ言葉のひびきをきく
正法を説けども、師弟を言はず
ひとへに同朋の縁をよろこぶ

本願を仰いでは
身の善悪をかへりみず
念仏に親しんでは
自から無碍の一道を知る

人に知られざるを憂へず
ただ世を汚さんことを恐る
己身の罪障に徹して
一切群生の救ひを願ふ

その人逝きて数世紀
長へに死せるが如し
その人去りて七百年
いまなほ生けるが如し

その人を憶ひてわれは生き
その人を忘れてわれは迷ふ
曠劫多生の縁
よろこびつくることなし


用語解説

宗祖・・・その宗派を開いた方。浄土真宗の場合はもちろん親鸞聖人。

殿上に生れて・・・親鸞聖人が公家の日野有範の長男として生まれた事を受けての記述。

愛欲の断ち難きを知り・・・親鸞聖人は自らを、煩悩を捨てきれない凡夫である、と自認しておられた。
悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
(→聖P.251『教行信証』信巻)

昵む・・・なじむ。ごく親しい付き合いの事を昵懇(じっこん)とか言いますよね。

名利の空なるを知りて離れ得ざるを悲しむ・・・2つ上の「愛欲の~」の項参照。

聖教・・・しょうぎょう。釈尊や高僧の教え(経・論・釈)のこと。

披く・・・ひらく。「開く」とだいたい同じ。披瀝(ひれき)とか言いますよね。

師弟を言はず・・・親鸞聖人は弟子を一人も持たないとおっしゃっていた事を受けている。
親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
(→聖P.628『歎異抄』第六章)
そのゆえは、親鸞は弟子一人ももたず、なにごとをおしえて弟子というべきぞや。みな如来の御弟子なれば、みなともに同行なり。念仏往生の信心をうることは、釈迦・弥陀二尊の御方便として発起すと、みえたれば、まったく親鸞が、さずけたるにあらず。
(→聖P.655『口伝鈔』6)

その人去りて七百年・・・この詩自体が、七百回御遠忌の折に作られたものなので。

曠劫多生の縁・・・こうごうたしょうのえん。長い長い時間、いくつもの人生を過ぎた中で得た縁。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。
(→聖P.149『教行信証』総序/赤本P.83「聖句」)
曠劫多生のあいだにも/出離の強縁しらざりき/本師源空いまさずは/このたびむなしくすぎなまし
(→聖P.498『高僧和讃』源空聖人 4.)
多生曠劫この世まで/あわれみかぶれるこの身なり/一心帰命たえずして/奉讃ひまなくこのむべし
(→聖P.508『正像末和讃』皇太子聖徳奉讃 10./赤本P.122)


金子大榮先生と淨國寺の関係

金子大榮先生のご実家は、南本町の最賢寺(さいけんじ)です。
最賢寺と淨國寺は相手次(あいてつぎ)という関係です。
お檀家さんに対して手次寺(てつぎでら、菩提寺)があるように、寺にもそれぞれお手次さんがあり、最賢寺の手次は淨國寺、淨國寺の手次は最賢寺なのです。

金子大榮先生は、淨國寺第十三代釈隆英と同年代で、親交が深かったようです。
金子大榮先生に釈隆英の妹が嫁ぎ、釈隆英に金子大榮先生の妹が嫁ぎ、お互いを「兄」と呼び合っていたそうです。

釈隆英の長男、釈俊英(淨國寺第十四代の兄)は、伯父でもある金子大榮先生の下で学び、助手のような事をしていたそうです。
Wikipediaの金子大榮先生の記事の中に、ちらっと俊英の名が書かれています。(2020年4月28日 (火) 02:25 の版で確認)