三帰依文

本文

(→赤本表紙裏)

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。此の身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。


用語

今生/多生・・・何度も生まれ変わる事を「多生」といい、今現在の一生を「今生」といいます。(→袖振り合うも多生の縁)

度す・・・「渡」を古くは「度」と書きました。仏教で「度す」とは、彼岸に渡る事、すなわち覚りを得て仏になる事を言います。

三宝・・・仏教における三つの宝、仏=仏陀(ブッダ、仏そのもの)、法=仏法(ダンマ/ダルマ、仏の教え)、僧=僧伽(サンガ、仏の教えを大切にする人々の集まり)の事。

・・・とてもとても長い時間の単位です。古インドの言葉「カルパ」の音写(音を漢字に写したもの)。(ヒンドゥー教では、一説によると一劫=約二十億年)
聖典P.748「正信偈大意」(蓮如上人)より
「五劫思惟之摂受」というは、まず一劫というは、たかさ四十里ひろさ四十里の石を、天人羽衣をもって、そのおもさ、ぜにひとつの四つの字を一つのけて、三つの字のおもさなるをきて、三年に一度くだりて、この石をなでつくせるを一劫というなり。


概略

明治になって仏教諸宗で協力体制を築くことになり、宗派問わずにとなえる言葉として作られたのが、この三帰依文だそうです。
前半部は、法句経(ほっくきょう)、法華経(ほけきょう)、華厳経(けごんきょう)から抜粋しまとめたもの、後半部(無上甚深微妙の法は~)は、他宗で元々使われていた開経偈(かいきょうげ)または開経文(かいきょうもん)と呼ばれるもので、編纂は大内青巒(おおうちせいらん、1845~1918)のようです。


藤島恵氏による私訳三帰依文

藤島 恵(ふじしま けい)氏・・・高田教区 第一組 圓照寺 先代住職

人に生まれながら、いつもニンゲンを失いつづけ、
仏に出会いながら、常にその前を素通りしてきた私。
けれども、仏に背きながらの、このいのちをおいてほかに、
いったいどこに覚りへの手がかりがあり得ようか。
この煩い悩みの人生こそ最後の仏縁なのだ。
さあ、もろともに尊とき三つの拠り所に立ち帰ろう。

誰かではない、この私はいま、
仏をこよなき人生の師と仰ぎ、いのち生きるあらゆる人々と共に、
この身をもって、仏の覚りを証したい。

誰かではない、この私はいま、
仏のみ言葉を信じて頼りとし、いのち生きる人々と共に、
智慧が海のごとく、深く広くありたい。

誰かではない、この私はいま、
み教えを喜ぶ人々の交わりを尊敬し、いのち生きる人々と共に、
慈悲溢れる世界の関係を築きたい。

この上もなく深く妙なる仏のみ教えにご縁を頂けるのも、
思えば、この私に、永くて闇いまよいの歴史があったからであった。
私はいま、阿弥陀の本願が、誰のために、何ゆえ建てられたのか、
よく肯き、受け持つことができる。
願わくば、このいのち尽きるまで、私は、如来真実のみ教えを、
いよいよ深く、おおらかに、尋ね続けたい。


三帰依(パーリ文)

(→赤本P.74)
ぶっだん さらなん がっちゃーみ
だんまん さらなん がっちゃーみ
さんがん さらなん がっちゃーみ

三帰依をパーリ語で表現したものに節をつけて歌にしたものです。
(パーリというのは、古代インドの会話語です)
関西の各宗派の仏教系高校でも習うそうです。


三帰依

(→赤本P.88)
自ら仏に帰依したてまつる
自ら法に帰依したてまつる
自ら僧に帰依したてまつる

前出「三帰依(パーリ文)」の日本語訳。音階もパーリ文のものに準じています。


本歌

三帰依の元になったと思われる経典の部分について、以下に示します。


(華厳経 淨行品 より)
自歸於佛 當願衆生 體解大道 發無上意
自歸於法 當願衆生 深入經藏 智慧如海
自歸於僧 當願衆生 統理大衆 一切無礙
自ら仏に帰せば、当に願うべし、衆生、大道を体解して、無上の意を発さんことを。
自ら法に帰せば、当に願うべし、衆生、深く経蔵に入りて、智慧、海の如くならんことを。
自ら僧に帰せば、当に願うべし、衆生、大衆を統理して、一切に無礙ならんことを。

この偈文では、菩薩の出家前、出家・入門する時、座禅する時、托鉢に出かける準備をする時、托鉢へ向かう道中、托鉢中、お勤め中、就寝時、起床時と、あらゆるタイミングで、衆生が○○するように願うべし、と書かれています。
元々の三帰依では「仏法僧の三宝に帰依する」事のみ述べられていますが、三帰依文の元となった上記の偈文は菩薩行に基づく偈文であるため、「衆生とともに」の語が欠かせないのでしょう。


 中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」(岩波文庫)より(P.36)
人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。

人に生まれた事、短い一生の中で仏法に出遭えた事は、「有り難い事」なのです。


(華厳経 世間浄眼品 より)
衆生罪垢甚深重 於百千劫不見佛 輪轉生死受衆苦 爲度是等佛興世 
衆生の罪垢は甚だ深重なれば、万千劫に於て仏を見たてまつらず、生死に輪転して衆苦を受く。是れ等を度せんが為に、仏は世に興りたもう