法然上人語燈録より「現世をすぐべき様は~」

『和語燈録(わごとうろく)』巻五 二四、諸人傳説(しょじんでんせつ)の詞(ことば)(→聖全四P.683)


法然上人のおっしゃった事を、死後に弟子がまとめた『法然上人語燈録』という書物があります。
漢語で書かれたもの十巻、和語で書かれたもの五巻の計十五巻あり、それぞれ『漢語燈録』、『和語燈録』と呼ばれます。

本文

又いはく、現世(げんぜ)をすぐべき様は、念仏(ねんぶつ)の申(もう)されん様にすぐべし。
念仏(ねんぶつ)のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてゝ、これをとゞむべし。
いはく、
ひじりで申(もう)されずば、めをまうけて、申すべし。
妻(め)をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。
住所にて申されずば、流行(るぎょう)して申すべし。
流行(るぎょう)して申されずば、家にゐて申すべし。
自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。
他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。
一人して申されずば、同朋とともに申すべし。
共行(くぎょう)して申されずば、一人籠居(ろうきょ)して申すべし。
衣食住の三は、念仏の助業(じょごう)也。
これすなはち自身安穏(あんのん)にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業(じょごう)也。



解説

生活のすべては念仏の「助業」である、という言葉です。

「助業」とは、「正定業(しょうじょうごう)」に対する語句です。
浄土往生のための五正行(ごしょうぎょう・五つの正しい行い)というものがあります。
 読誦(どくじゅ・浄土三部経等の経典を読む)、
 観察(かんざつ・阿弥陀仏とその浄土のすがたを見る)、
 礼拝(らいはい・阿弥陀仏を拝む)、
 称名念仏(しょうみょうねんぶつ・阿弥陀仏の本願を信じその名を称える)、
 讃歎供養(さんだんくよう・阿弥陀仏の功徳を讃えお供えする)
です。
このうち称名念仏を「正定業」とし、他4つを「助業」としました。

これを拡大し、あらゆる事を称名念仏の助けとなる行いと定義したものです。
独身を貫くのか結婚するのか、定住するのか放浪するのか、誰かの世話になるのか自分で稼ぐのか、ひとりで頑張るのか仲間と一緒にするのか、
念仏申しやすいかどうかで生き方を決めるように言っているのです。

我々も、何かを決める時には、念仏申しやすいかどうかという観点で考えてみるべきでしょう。
ただしその一方で、「念仏申しやすい」を言い訳に使わないように気を付けないと、つい易きに流れるのも我々だと思います。
お互いに気を付けましょう。


法然上人について

法然上人は、浄土宗の宗祖で、親鸞聖人の師です。
正信偈の「本師源空明仏教」(→赤本P.30)の「源空」というのが法然上人のことです。

『歎異抄(たんにしょう)』第二章には、以下のようにあります。
たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずろうそう。
(→聖P.627)
親鸞聖人が、「たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に落ちたとしても、後悔することは無い」と断言したという話です。
この後に いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし (元々自分の力で成仏できるような身ではなく、いずれ地獄に落ちる事が決まっている身であるから)とも言っていますが、それを置いても、法然上人への信頼が伺われると思います。


『恵信尼消息(えしんにしょうそく)』では、以下のような描写があります。
ただ、後世(ごせ)の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死(しょうじ)出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いし
(→聖P.616)
親鸞聖人が比叡山を下りられて、法然上人の所で毎日通っていた時、法然上人は誰に対してもいつも同じように、同じことをおっしゃっていた、という事です。
親鸞聖人は法然上人の所へ通うようになってすぐに弟子入りしたのではなく、毎日々々雨の日も風の日も通い続け、法然上人がいつも同じようにただ一筋に仰せであるのを見て、弟子入りを決めたのです。

源空光明はなたしめ/門徒につねにみせしめき/賢哲愚夫もえらばれず/豪貴鄙賤もへだてなし
(→聖P.499『高僧和讃』源空聖人 13.)